巨頭…これは“久田”の事で間違い。今回のテーマは白い巨塔。
電塾の日、永嶋氏から思わぬ贈り物を頂いた。(実は借り物なのだが)
田宮二郎編白い巨塔。全巻。2時間テープに16巻。
こいつをを録画したほうも録画したものだが、借りて見るのも覚悟がいる。
あたしの女房がこれのファンで私も小さい頃この本編をリアルタイムで見ていた。
しかし、何時、これを見るのか?
どこからそのための時間と体力をひねり出すのか?
今後の大いなる課題だ。
といいつつ、早速その日に2時間、1本を見てしまった。
大病院、高層ビルがせいぜい12階建てってのが泣かせるし、主役と黒木瞳以外は皆「近作白い巨塔」にそっくりなのに驚いた。いや、かなり旧作を意識して作ったんだなと思う。明日は日曜日だというのに全員出社で仕事なのだ。
予想にたがわず出来はいい。残り15巻。
Author Archives: sika
鹿火屋
朝食の後、あたしは元湯まで朝風呂につかりにく。今回のお風呂でもっとも良いお風呂だったような気がする。すがすがしい朝の雰囲気と今日は特にぐっすり寝ていたので体調がよかった所為もあるだろう。その後最後の伊香保散策ではまた気に入ってしまった大弓をひきに行く。その後合流した一族郎党が片っ端から大弓にはまっていた。
水沢観音にお参りし、水沢うどん。そのうどん店の並びの最後に鹿火屋という不思議な店がある。ライトアップの浅岡さんに前もってお伺いしておいた店で、裏の庭でとれたものを中心に出すのだそうだ。売り物は葛餅、里芋を丸ごとくし刺しにした焼き芋。お店は手作りの日本家屋と本物の水車小屋。参りました。裏庭には竹馬が置いてあり、皆はまる事はまる事。以外と“久田”が才能を示し、よたよたとあるくので、ついあたしも負けん気で踏ん張ってしまった。少し腰が痛い。
お酒は置いていないので普段ならぶつぶつ言うところだけれども、どうせ今日は運転手、という事でさほど腹も立たない。普通にラムネを飲んでいる。
そこからはまた下の道。3時ころに出発し、どう走ったのかよく覚えていないけど、122号線で利根川を渡るのに苦労した。松戸に着いたのが8時過ぎ。ふだんなら3時間半、という工程だろうか?
明日は一日寝ている事になりそうだ。
伊香保にて
寝不足だ。車をずっと運転しっぱなしで、夕食後も宴会が続き、それでも2時ころに寝たのだが、寝つかれず6時ころまで寝れなかった。
朝食は8時。飯を食べているうちに頭痛がしてきて、さっさとまた寝る。9時半から手びねりの焼き物体験。これは以外と面白かった。昔昔、彫塑の実習をとっていた事もあり、(もちろんブロンズや木彫、石彫ではなく、石膏取りだ)久々の昔とった何とか。
それでも水物を入れる器を作る勇気はなく、あたしはペン立てとノートブックの台を作った。うまく放熱バントして機能するといいのだが…これは一ヶ月半も過ぎたら送られてくるという。
昼飯はソースカツ丼の店。結構うまい。その後タクシー三台に分乗し、榛名山に向かう。全員でロープウエィで頂上に上がった後は自由行動で、(あ、もちろん今回も恒例のソフトクリームタイムはあった)乗馬、ゴーカート、足漕ぎボート、4輪自転車などで台の大人が子供のように遊び回る。あたしは大人なので湖を散策し、温泉に浸かり、戻ってくる事にした。しかし、息で1.8キロくらいあるいてしまい、温泉に入ったら、力尽き、帰りはタクシーに迎えにきてもらう羽目になってしまった。さすがに大人は体力が落ちている。
それでも夕食後、お決まりの温泉卓球。足が悪かったり、胃が痛かったりしてた連中がいきなりよみがえり、スマッシュやカットを決めている。あたしよりも10年から25年上の世代だ。
さすがにその後の宴会では30分もしない内にみなこっくり始め、10時40分に布団にはいってしまった。寄る年波…
そうそう、階段の途中に大弓をひかせる射的屋があり、あたしはこの手のものが大好きなので早速は行ってみた。ほとんどの観光地の矢と違い、ここのはまっすぐに飛ぶ。どうやらここのおじいさんは弓道の免除を持っているようだ。すっかりはまってしまった。
伊香保へ
松戸の両親を拾って、一般道を利用し、伊香保に向かう。
東北道は8時の時点で川口のインターチェンジから渋滞が始まっていたので、一般道、有料道路を組み合わせた今回のコースを選択。これは渋滞知らずだった。館林はツツジの見物客が集中するのでさらに北上し、北側から国道50号線にのり、122号線は突っ切って見事に11時半には“電塾の助教授”阿部氏の故郷である足利に立ち寄り、お昼ご飯にするはずだった。
しかし思わぬ落とし穴があった。
さらに利根川の北側から進入しようとコースを変えたが、いきなり途中でいきなりびくともしなくなった。慌てて50号に戻っても同じ状態。田舎道を突っ走り、あぜ道を蛇行してやっと渋滞の先頭にたどり着いた。(カーナビの威力は凄い。)そこはなんと足利フラワーパークの会場入口。駐車場がすでに満杯になっているらしく、入りたい車、出たい車がたった二人の誘導員のおかしな誘導で皆立ち往生している。これでは渋滞するはずだ。まともに走っていれば2時間化かってもたどり尽きそうにない。
悪態をつき、ののしりながら、40分遅れてレストランに到着。予約を入れていたのだが、電話で平謝りに謝っておきやっと席に着く。
インターネットで検索しておいたレストラン倉敷は値段も安く、お料理もおいしい。これで完全に機嫌を直したあたしたちは足利学校跡を散策する。木々が余裕を持って配置され、見事な築山ある。町並みは小さいが、中心部にこれだけの自然を残しているのは見事だ。ううむ、阿部氏はなるほど、こういったところで生まれ、育ったのか。
その後途中に予定していた赤城の牧場、繊維博物館などは全てあきらめ、伊香保に向かう。あたし以外はみなお昼でおなかいっぱいになったのか、ぐっすり眠っている。
伊香保のグリーン牧場辺りからまた渋滞。それでも数少ない抜け道をこれもカーナビで検索しながら、もう一方の関越道を回ったチームに7分ほど遅れて到着。ついに総勢12名の旅行が始まった。
この12名、実は“久田”関係の一族郎党で魑魅魍魎に勝るとも劣らぬつわものぞろい。今年も妖怪大行進が始まった。
“ぺこ”を病院に預ける
ゴールデンウィークに家族旅行をする事になったため、“ぺこ”を病院に預ける事になった。旅行自体は2拍3日なのだが、それが連休の真ん中に当たるため、病院が連休に入る前に預けなくてはならない。
そこで二日も前に“ぺこ”を病院に連れていき、“歯磨き”と耳の後ろに出来た“おでき”をとる手術、つめ切りをお願いした。自宅に帰って猫がいない、というのは何だか不自然だ。考えてみるともう20年も猫と一緒の生活をしてきているのだもの。
学校アルバム
学校アルバムのキョウコロさんで写真館のカメラマンさん相手のセミナーをやってきた。基本的に“写真”は個人的、あるいは作家的な側面が強く、アルバムはパブリック、というか、共通意識がないと作れないものだ。いや、底なしの金と手間ひまさえ、さえかければ、印刷はどうにでもなる。しかし、ページごとに一括スキャニングという手法で単価を下げてきたアルバム業界にとってはデジタルになったからといってそんなことをしては自分の首を絞めてしまう結果が目に見えている。
では今までどこが原稿の適正化をしてきたのだろう?最近になってやっと解ったのだが、それは写真現像所。プリンタとネガフィルムの進化と、そのオペレーターがその原稿の[平均化]、というか一括処理を可能とする中間作業を支えてきたのだ。
しかし、デジタルになり、その存在が飛ばされてしまった、あるいはすでに価格競争でそういったオペレーターが仕事を出来る場所がなくなってしまったため、誰かがそれをやらなくてはいけない羽目になってしまったのだ。誰もその作業をやらなければ、その結果は目に見えている。
そこで、どこが、あるいは誰がその最適化をするのか、という問題が表面化してくる。バランスの悪いデータを納品して仕上がりが悪いという写真館、まともなRGBデータが入ってきてもろくなCMYK変換を出来ない印刷屋。最悪そんな図式も見えてくるし、もっと最悪なのはまともじゃないRGBデータを訳も解らずCMYKに変換してただ印刷するだけの印刷会社。まさしく、あたしたちがたどってきた道とまったく同じだ。
お互いに責任をなすりつけ合うのではなく、自分のやるべき領域を責任持って仕事をすれば手間もかからなく、そこそこの仕上がりを期待できるのがデジタルのはず。
カメラ側は、最低整ったRGBデータをその全てに関してバランスをとり、納品するデータの資質をそろえる。(たとえば顔写真だったら、顔の大きさはもちろん、明るさ、シャドウのつき具合、背景の明るさ、色相彩度などを整えるのは当然だ。)バランスのとれたデータを受け取った印刷側はその画像に対し、適切な変倍、シャープネス、CMYK 変換を行う。それで仕事はまともに進むはずだ。
バランスをとれないデータしか出してこないところは仕上がりが悪い。これは当然。(もっと高いお金を払えば、修正してくれるかもしれないけど)どれだけ良いデータを納品しても仕上がりの悪い印刷会社にはもう頼まない、これも当然。
実はこの世界って、そんなにパブリックルールを大上段に構えなくとも十分に行ける世界なのかもしれない。それでもパブリックルールに乗っ取ったほうがはるかにシンプルに作業を完了できるだろう。
最初は学校写真の世界であたしに何が出来るのだろうと思っていたのだが、最近になって、カメラマンと印刷会社の距離が近いこの世界だからこそ、うまくパブリックルールを標準とする事が出来るのではないかと思うようになってきた。つまり、独創的な、というか、独断的なルールはどこにも置かせない。どの印刷会社に持っていってもそのまま通用するルールを(それもコマーシャルの世界で今模索している…いや、今まさに標準化にこぎ着けようとしているルールをそのまま適用するのだ)標準とし、まさしく印刷のうまい下手で会社を選ぶ。データの仕上がりが下手なところはどこに行ってもやはり下手。それを持ち上げるには自分が努力する以外にはさらに画像処理をお金を払ってしてもらう以外にない。
なんかきつい言い方だが、良いデータはお金をかけなくても良い印刷物になり、ルールから外れたデータはそれなりに良い仕上がりをさせるためには手間もお金もかかる。当たり前の事だ。
競争はそのスタートラインがそろったところから始まる。それでいいのではないか。そう思い出している。
風邪はまだ治らない。アダムスの勉強会行きたかったのに。
風邪引いた
4月に入り、日々の仕事に追われて、気がつくともう24日になってしまった。金曜日の夕方に寒けがすると思ったら、思いきりくしゃみの連発。ついこの間まで女房がひいていた風邪が今度はあたしに襲いかかったらしい。相変わらずふてぶてしい風だ。だまって下を向いているだけで鼻水が落ちてくる。まさしく、これは参った。だって明日はセミナーがあるんだもの。また例によって2~3時間は話続けなくてはいけないのだ。(毎回の事だが、いつも時間をオーバーし、2時間時間を与えられると三時間はしゃべってしまうのだ。まとめる、という事がなかなかにできないあたしはこの道の専門家にはなれそうもない。)
どうやら気落ちした理由はほかにもある。実はこの日記の裏日記、、というか、死んでしまった“おかく”を偲んで書き続けてきた“向日葵の日記”を書き終わってしまったのだ。まだ全てをアップしているわけではないのだが最終章を書き終わってしまった。懲りもせず、プロフェッショナルDTP に連載を始めてしまったので、この手も仕事にすこしばかりケリをつけてやろうと思ったのがいけなかった。書き終わった途端に背中の肩甲骨の裏側辺りから何かが抜け落ちたような思い。肩の荷が下りたのとは少し違う。
命日
朝9時上野発のスーパー日立11号に乗り、いわきへ向かう。父ちゃんの命日で、特に何回忌、というわけではないが、八戸に住んでいる母ちゃんが墓参りに行きたい、というのでそのお供をするため。このところ、“おかく”もいなくなり、新幹線も八戸まで通ってしまったし、あたしのうちも浅草橋で、上野、東京駅まで近くなったので、墓参りに行っていない。車で帰っていた頃は込んでいる東北道を避け、常磐道で八戸に向かった関係で、常磐道をおりるとそこは宮城県いわき市四倉。都合よくあたしの父ちゃんの墓がそこにあるのだ。それで8年くらいは墓参りを“久田”と“おかく”と共にかかした事が無かったのだ。
しかし、帰省のために、車の中で丸1日、実家に帰り着いて一日眠り、翌日は家族と食事をするも、翌々日はまた丸一日車の中。渋滞がひどい時は28時間ものろのろ運転をした事もある。特に家の場合、運転手はあたし一人、という事もあったし、道が特に混む(この民族の大移動、世界でもっとも渋滞密度が高く、規模が大きいのではないだろうか)お盆しか帰れないという事情があり、ついに折れてしまった。それが、自宅→上野が0.3時間。上野→八戸2.8時間。八戸→実家が0.5時間。合計3.6時間でその間は寝ようが酒を飲もうが、飯を食おうがやりほうだい。(実はほとんどテキストを打っているのだ。とてもカメラマンとは思えない)こんなに楽な事はない。おまけにちょっと目には電車の方が高そうだが、実際に往復丸四日間の食費やおやつを考えるとほとんどとんとんだ。そしてその間、あたしの時間が全く使い物にならないのと、事故の危険にさらされる事、移動が往復でも約7時間で済んでしまう事を思うと倍以上か四五倍の価値がある。 たとえば、今までは深夜に出発したり、早朝に出発したりしていたのだが8時に起きて9時の新幹線に乗り、12時には八戸について、母ちゃんと昼飯。夜は田舎の友人とのみに行く。つまりこの日の昼から帰省が完了しているのだ。車の場合だと早朝4時に東京を出発。運が良いとお昼ころ墓参りをして、仙台が夕方。よく早朝に実家に帰り着き、その日は丸一に寝っぱなし。運が悪いと翌日の昼過ぎに付いた事もある。当然さらに翌日になって、初めて帰省が完了し、その翌日にはもう東京に向かうが、これで5日間を消費してしまった事になるのだ。
そういった理由で唯一のデメリットは墓参りが不可能になってしまった事。ま、それでもこうして別口で行くのも、また良いんじゃないのかしら? それにしても便利になったものだ。この常磐線はその昔、あたしがまだ予備校生だった時代に、よく実家に帰るのに使用した。“久田”にとってももともとは葛飾とは言え、実家が松戸に移動して以来、常磐線はなじみの路線だったという。当時の常磐線周りの八戸行きは12時間はかかっていたと思う。(しかも硬いイス、おまけに乗客の柄は最低ランクだった。)今は直通は多分ないと思うが、車両はきれいだし、イスも座りやすい。今は傍若無人な宴会も影を潜めたらしい。
父ちゃんの命日はゴールデンウィーク直前で、東北地方では桜が満開となり、おまけに春の花がまとめて咲き出すとても良い季節だ。こんな季節に仕事を離れ、一日を過ごさせてもらえるのは父ちゃんのプレゼントかもしれない。今日一日は気温が20度前後でのどかに晴れている。
写真の定義
関西電塾のBBSに面白い話があったので私からも一言。答えにはなっていないかもしれませんが…
以下のような“悩み”が投稿されたのです。
–村田の疑問です
写真は本来、光画といわれるphotographから意訳された言葉です
つまり、光を使って画像を作るのを写真と考えています
CGはコンピュータを使って無から作っている画像と考えています
今、デジカメで撮影されたデータをどこまで触れば写真で無くなるのか
別に写真である必要は無いという考えは今は無くして考えます
デジタルになった段階で写真でないという考えも無くします
中略…何をすれば写真で無くなるのでしょうか?
撮影した画像が1ピクセルででもあれば写真なのでしょうか?–
これに対し、いくつかの回答、意見が寄せられました。私も私なりに考えていた事がありますので、少し悶着してみたいと思います。
写真の定義もいろいろあるのでしょうがもう少し世界を広げてみるとよく解るのではないかと思うのです。アナログ時代、デジタルを問わず、画像とは包括的な言葉だと思うのです。アナログ時代は絵画がその中心にあり、その周辺に写真、イラスト、動画などがあったのでしょう。これがデジタルとなると、その中心が写真、CGとなってきたように思われます。ただしこれらは重なり合うもので切り離して考えるような種類のものではないと思うのです。
画像⊃写真、イラスト、絵画、映画などであり、この図式はデジタルでも全く変わらないとおもうのです。この二つの図式は全く重なり合っており、頭にデジタルが付こうが付くまいが、写真は写真。ただ、絵画の中にも写真を模倣したものがあり、写真にも絵画を模倣しようとする動きはあるでしょう。
表現したいものがあり、それに最短距離で到達できる方法を選択する事に私も全く異論はありません。写真にCGを持ち込んでも構わないし、逆もまた真なりです。
いずれ、派生は写真だが私の作品はイラストです、とか、イラストから派生したけれどもこれは写真です、というような作品も現れてくるかもしれませんね。
写真といってもたかだか200年程度の歴史です。(カメラオブスキュラというその原理は古くから知られていたけれども、ダゲレオタイプが世に現れたのが1830年過ぎで、photographという言葉が定義されたのが1839年でしたか、今まで全盛だったロールフィルムがイーストマンコダックによって発売されたのが1888年。この頃になってやっと現在の写真に近くなります。それでもバルナックが35mmカメラを試作した時はASA感度が3とか5だったそうです。ライカが1925年。ツアイスが1956年。たった50年前の事です。カラー写真が始まった時に思いきりたたかれていませんでしたっけ?)写真はその師匠である絵画に対し引け目を感じながらも技術として、芸術としてその文化をはぐくんできたのです。そして乳剤がガラスに硝酸銀からトリアセテートフィルムにハロゲン化銀とさまざまに進化したように、今度はCCD(Charge Coupled Device)あるいはCMOS(Complementary Metal Oxide Semiconductor)といったものに進化(少なくとも変化)し、それゆえの新しい方法論を私たちは模索する事になるのでしょう。
袋小路にはまろうが、さらに進化をしようが、邪道だと言われようが構わないではないですか。この若い表現術である写真…私も光画という表現は好きですね…はデジタル化するによって、さらに広い表現方法をその中に取り込もうとしているのだと思います。
デジタルは写真が進化する過程の通り道であり。私たちは運良くその時代に立ち会っているのです。そう考えるとどんな事にもトライしてみたくなりませんか?
インクジェットプリントも、従来の写真ではありませんが、これからの写真にはなるかもしれませんね。(対局はPictrographyだったと思います。銀塩の形をしたデジタル…)私は新しいメディアとして(今更ですがデジタルをそのままデジタルとして表現しようとしている点がすごく気になってるんです)
ある意味、“写真”から離れてしまっても、それはその時の事、また、“写真”を引きずって進化してもそれなりの答えを得る事が出来るような気がしています。そういった意味で、写真のデジタル化が楽しみなのは私だけでしょうか?
どこでも補助光”
地下鉄の検査場のロケがあったが、どう算段しても(つまり予算と当社の事情、その日、その時に人員を割けないという)一人で撮影に行かなければならなかった。撮影自体はデジタルの恩恵でさほどに難しくは無いのだが、広い場所を一人で移動しなくてはならないのが頭痛の種だ。そこで一計を案じた。荷物運びに使用している台車にスタンドとストロボをくくりつけ“どこでも補助光”を作ってみたところかなり具合が良い。これをもう少し機能的に進化させた台車って誰か作ってくれないかな? もっとも、全てエレベーターが使え、スロープがある事が条件になる。(今回のロケ地はまさしくそういった場所だったのだ。)おかげで二日のロケを一人で170カット取りきり、現場で基本処理を終わらせてしまった。必要は発明の母?