関西電塾のBBSに面白い話があったので私からも一言。答えにはなっていないかもしれませんが…
以下のような“悩み”が投稿されたのです。
–村田の疑問です
写真は本来、光画といわれるphotographから意訳された言葉です
つまり、光を使って画像を作るのを写真と考えています
CGはコンピュータを使って無から作っている画像と考えています
今、デジカメで撮影されたデータをどこまで触れば写真で無くなるのか
別に写真である必要は無いという考えは今は無くして考えます
デジタルになった段階で写真でないという考えも無くします
中略…何をすれば写真で無くなるのでしょうか?
撮影した画像が1ピクセルででもあれば写真なのでしょうか?–
これに対し、いくつかの回答、意見が寄せられました。私も私なりに考えていた事がありますので、少し悶着してみたいと思います。
写真の定義もいろいろあるのでしょうがもう少し世界を広げてみるとよく解るのではないかと思うのです。アナログ時代、デジタルを問わず、画像とは包括的な言葉だと思うのです。アナログ時代は絵画がその中心にあり、その周辺に写真、イラスト、動画などがあったのでしょう。これがデジタルとなると、その中心が写真、CGとなってきたように思われます。ただしこれらは重なり合うもので切り離して考えるような種類のものではないと思うのです。
画像⊃写真、イラスト、絵画、映画などであり、この図式はデジタルでも全く変わらないとおもうのです。この二つの図式は全く重なり合っており、頭にデジタルが付こうが付くまいが、写真は写真。ただ、絵画の中にも写真を模倣したものがあり、写真にも絵画を模倣しようとする動きはあるでしょう。
表現したいものがあり、それに最短距離で到達できる方法を選択する事に私も全く異論はありません。写真にCGを持ち込んでも構わないし、逆もまた真なりです。
いずれ、派生は写真だが私の作品はイラストです、とか、イラストから派生したけれどもこれは写真です、というような作品も現れてくるかもしれませんね。
写真といってもたかだか200年程度の歴史です。(カメラオブスキュラというその原理は古くから知られていたけれども、ダゲレオタイプが世に現れたのが1830年過ぎで、photographという言葉が定義されたのが1839年でしたか、今まで全盛だったロールフィルムがイーストマンコダックによって発売されたのが1888年。この頃になってやっと現在の写真に近くなります。それでもバルナックが35mmカメラを試作した時はASA感度が3とか5だったそうです。ライカが1925年。ツアイスが1956年。たった50年前の事です。カラー写真が始まった時に思いきりたたかれていませんでしたっけ?)写真はその師匠である絵画に対し引け目を感じながらも技術として、芸術としてその文化をはぐくんできたのです。そして乳剤がガラスに硝酸銀からトリアセテートフィルムにハロゲン化銀とさまざまに進化したように、今度はCCD(Charge Coupled Device)あるいはCMOS(Complementary Metal Oxide Semiconductor)といったものに進化(少なくとも変化)し、それゆえの新しい方法論を私たちは模索する事になるのでしょう。
袋小路にはまろうが、さらに進化をしようが、邪道だと言われようが構わないではないですか。この若い表現術である写真…私も光画という表現は好きですね…はデジタル化するによって、さらに広い表現方法をその中に取り込もうとしているのだと思います。
デジタルは写真が進化する過程の通り道であり。私たちは運良くその時代に立ち会っているのです。そう考えるとどんな事にもトライしてみたくなりませんか?
インクジェットプリントも、従来の写真ではありませんが、これからの写真にはなるかもしれませんね。(対局はPictrographyだったと思います。銀塩の形をしたデジタル…)私は新しいメディアとして(今更ですがデジタルをそのままデジタルとして表現しようとしている点がすごく気になってるんです)
ある意味、“写真”から離れてしまっても、それはその時の事、また、“写真”を引きずって進化してもそれなりの答えを得る事が出来るような気がしています。そういった意味で、写真のデジタル化が楽しみなのは私だけでしょうか?