学校アルバムのキョウコロさんで写真館のカメラマンさん相手のセミナーをやってきた。基本的に“写真”は個人的、あるいは作家的な側面が強く、アルバムはパブリック、というか、共通意識がないと作れないものだ。いや、底なしの金と手間ひまさえ、さえかければ、印刷はどうにでもなる。しかし、ページごとに一括スキャニングという手法で単価を下げてきたアルバム業界にとってはデジタルになったからといってそんなことをしては自分の首を絞めてしまう結果が目に見えている。
では今までどこが原稿の適正化をしてきたのだろう?最近になってやっと解ったのだが、それは写真現像所。プリンタとネガフィルムの進化と、そのオペレーターがその原稿の[平均化]、というか一括処理を可能とする中間作業を支えてきたのだ。
しかし、デジタルになり、その存在が飛ばされてしまった、あるいはすでに価格競争でそういったオペレーターが仕事を出来る場所がなくなってしまったため、誰かがそれをやらなくてはいけない羽目になってしまったのだ。誰もその作業をやらなければ、その結果は目に見えている。
そこで、どこが、あるいは誰がその最適化をするのか、という問題が表面化してくる。バランスの悪いデータを納品して仕上がりが悪いという写真館、まともなRGBデータが入ってきてもろくなCMYK変換を出来ない印刷屋。最悪そんな図式も見えてくるし、もっと最悪なのはまともじゃないRGBデータを訳も解らずCMYKに変換してただ印刷するだけの印刷会社。まさしく、あたしたちがたどってきた道とまったく同じだ。
お互いに責任をなすりつけ合うのではなく、自分のやるべき領域を責任持って仕事をすれば手間もかからなく、そこそこの仕上がりを期待できるのがデジタルのはず。
カメラ側は、最低整ったRGBデータをその全てに関してバランスをとり、納品するデータの資質をそろえる。(たとえば顔写真だったら、顔の大きさはもちろん、明るさ、シャドウのつき具合、背景の明るさ、色相彩度などを整えるのは当然だ。)バランスのとれたデータを受け取った印刷側はその画像に対し、適切な変倍、シャープネス、CMYK 変換を行う。それで仕事はまともに進むはずだ。
バランスをとれないデータしか出してこないところは仕上がりが悪い。これは当然。(もっと高いお金を払えば、修正してくれるかもしれないけど)どれだけ良いデータを納品しても仕上がりの悪い印刷会社にはもう頼まない、これも当然。
実はこの世界って、そんなにパブリックルールを大上段に構えなくとも十分に行ける世界なのかもしれない。それでもパブリックルールに乗っ取ったほうがはるかにシンプルに作業を完了できるだろう。
最初は学校写真の世界であたしに何が出来るのだろうと思っていたのだが、最近になって、カメラマンと印刷会社の距離が近いこの世界だからこそ、うまくパブリックルールを標準とする事が出来るのではないかと思うようになってきた。つまり、独創的な、というか、独断的なルールはどこにも置かせない。どの印刷会社に持っていってもそのまま通用するルールを(それもコマーシャルの世界で今模索している…いや、今まさに標準化にこぎ着けようとしているルールをそのまま適用するのだ)標準とし、まさしく印刷のうまい下手で会社を選ぶ。データの仕上がりが下手なところはどこに行ってもやはり下手。それを持ち上げるには自分が努力する以外にはさらに画像処理をお金を払ってしてもらう以外にない。
なんかきつい言い方だが、良いデータはお金をかけなくても良い印刷物になり、ルールから外れたデータはそれなりに良い仕上がりをさせるためには手間もお金もかかる。当たり前の事だ。
競争はそのスタートラインがそろったところから始まる。それでいいのではないか。そう思い出している。
風邪はまだ治らない。アダムスの勉強会行きたかったのに。