セミナー

 月曜日はハンディで行っているレギェラーのセミナー4時間、火曜日は印刷会社のオペレーターさん向けのセミナーで、これが10時から5時まで、しゃべりっぱなし。今日は新幹線にのって京都に向かい、ウナギ弁当を食って(早々、最近また東京駅のウナギ弁当が復活したのだ)明日のセミナーに備える。

 せっかく京都に行くのだから、笠井さんにお会いしようとアポを取ると、運良くスケジュールは空いているとのこと。ゆっくりお会いするのは何年ぶりのことだろう?

 最近はまっている、超広角ズームレンズの収差(色収差もそうだが、いわゆる「ゆがみ」というヤツ)のチェックをするために、京都のお寺さんをいくつか回ろうと思い、早めに京都に着くように新幹線の切符を取ったところ、笠井さんが車で案内してくれると言う!お会いできるだけでもうれしいのに、ありがたいことだ。

50歳の心構え?

 新・デジタルフォト講座がやっと発行され、新・優しい電塾も何とかスタートすることができた。これで、この6ヶ月間のどたばたはようやく収まったことになる。そこでこれからは心を入れ替えて(何度心を入れ替えたことか)また日記をこつこつ書いていこうかと思う。ちなみにお仲間のフロスと警部が退官されたので、寂しくなっていたが、今回新しいお仲間を迎えることになったので、それもきっと励みになってくれると思う。

 私はとうとう50歳になる。実は早生まれなので、私自身はまだ49歳なのだが、まわりのクラスメィトは皆軒並み50歳で、小中学校、高校で東京同窓会やら地元八戸の同窓会やらで、今年はすでに3回の同窓会をこなしており、9月には大学時代の同窓会も予定されている。今、こんな年になって見て考えることは、60歳で定年なんてとんでもない。昔はいざ知らず、いまでは70歳位までは現役じゃないと、って感じてしまう。ここまで来ると、また誕生日はお祝い気分となってきたのがまた不思議だ。これを開き直りと言うのだろうか? 私たちの師である早川塾長は赤いちゃんちゃんこをまとうべきお年になられたが(おめでとうございます!!)そう簡単に引退はさせない。引退は70になってから…。

 そういえば電塾に参加し出したのが私が40歳のころだから、デジタルフォトに手を染めて、10年が経過したことになる。ものすごく早いような、つい先だってのような気もする。この10年間、初めてパーソナルコンピュータに触り、マウスをもち、フィルムではなく、CCDに露光し、イルミネーターとルーペを捨て、ディスプレイで仕上がりを確認し、デジタルプリンタを導入し、カラープリントを自家処理にしてきた。初期投資が、当初軽く一千万円を越していたものが、今では200万円もあれば可能になってしまった。(むちゃを言えば、10万円のデジカメを買って、それでデジタル開始と言う事も…)投資価格はこの10年間で1/5以下に下がったと言えるだろう。しかし、値段が下がるとともに、基礎的な部分に対する投資をおろそかにする風潮が多く見受けられるようになってきたような気がする。ディスプレイや、キャリブレーター、ビデオボード、そして観察環境などだ。これはデジタルカメラ以前の問題で、ここを作らずにはどんなに高価な機械を購入しても役に立たないこともあれば、50万円程度のデジカメでも、充分に仕事をこなせることもあるのだ。
 
 それ以外にも、写真を撮影する上の露出やホワイトバランスの問題。チャンとやっていれば、今のデジタルカメラは、きちんと記録してくれるのに、そこをおろそかにするから、後処理も大変になるのだもの。

また時間が空いてしまったけど

すぐに続きをかくはずだったのに…。
またこれで少し時間が空いてしまいそうです。ほとんどマスターベーションのような日記になってきましたが、たまさか訪れた方に何とか飽きられないようにと願いつつ…。

しばらく前から燃料電池の話に興味を持って調べ始めた。人様に大見えを切ってお話しできるほど詳しいわけではないが、セイコーインスツルメンツ社が開発した燃料電池は今まで発表されてきたどの電池よりも小型安全、しかもノートパソコンやデジタルカメラに用意に搭載できそうだ。発電セル内部の圧力差を利用して触媒の供給をコントロールできるらしく、動力を使用するポンプなどの仕組みの不要という事だ。現在では125mm×50mm×30mmで1ワットの電力を5ボルトで約8j間発生できるのだそうだ。カメラに搭載するためには3ワットの電力を8ボルト程度は必要とされるため、もちろん改良が必要なのだろうが、これは期待できる、と思っていたら実は燃料電池先進国は日本だけでなく、カナダもまたかなりのベンチャー企業が実績を積み上げているという。老舗のバラードパワーシステムから、社員わずか43人のテキオンソリューション社までバンクーバに軒を連ねているらしい。

カナダ政府は燃料電池と言う言葉がまだ一般的でな買った1990年から脱石油依存を見据え、積極的に支援をし、現在の急成長の土台をきずいたといわれている。

テキオン社の売り物は1セントコインほどの大きさの超小型燃料電池。電池の陽極にアリの出すギ酸を触れさせ、化学反応を起こして電子を発生させる。ギ酸を使用する仕組みは水素と酸素を使用する一般的な仕組みに比べて持続性、効率を上げるのが難しいとされていたようだが、それを克服し、通常の電池をも上回る結果を台sていルという。

こんなことを考えていると、これから起こる大事件はデジタル化でも写真でも無く、エネルギー革命…火力、電力、原子力をも凌ぐ第四のエネルギーが世界を牽引するのではないだろうか?もう少し若かったら、その世界に身を投じる事で一気に世界の大富豪に慣れるかもしれない…なんて。

いやいや、この技術のおかげで名実ともにデジタルフォトがまさしくクリーンな技術になる事を願っている。

エネルギーと環境問題その1

デジタルフォトは環境に優しいか?

エネルギーはほとんどの場合環境を破壊する。
薪、石炭に始まり石油など皆燃えるために酸化する必要がある。もちろん二酸化炭素、煤煙を排出する。そしてクリーンエネルギーとされる電気も発電所はダムであり、火力であり、原子力だ。ここで多くを語る事はしないがどれもが大きな問題を抱えている事は周知の事実。一見クリーンに見える太陽光発電さえ、あのアモルフォス素子、シリコンを生成するために多量の電気が消費されている。

他にも風力発電、潮流発電等が開発されているが、その規模の大きさと開発費、発電効率を考えると今すぐには経費対効果を期待できそうもない。

と言う事は結局電気に頼るデジタルフォトはそんなに環境にと言う分けではない。シリコーンウエーハーを作るのにもかなりの電気量を使用しているはずだし…。もちろん有毒な化学物質を直に生成はしないというメリットはあるのだけれども。

斉藤清


 久々の日記。毎日は無理かもしれないがまた、出きる限り書き続けて行きたいと心も新たに。
 先日福島の会津若松にロケに行ってきた。内容は斉藤清の回顧展のための作品撮影だった。彼は残念ながら、すでに故人だが、私は運良く生前のポートレートを撮影する機会に恵まれたことがある。それも合計三回も。
 斉藤清のポートレイトで、素直に笑った写真をほとんど見た事が無い。いずれも口がひん曲がっているか、作品作りに熱中していてきつい目をした写真ばかり。実は私も最初に撮らせていただいた写真は御多分に漏れずにそのような写真ばかりだった。
 私の予備校時代からの友人で、源籐と言う友人がいる。阿佐谷美術学院と言うところで知りあった。あたしが二浪のころに入ってきたのだが、同じ北国出身と言う事で(しかも酒が好き…おまけに彼は酒屋の息子)すっかり気が合い、彼が卒業後学芸員として働くようになってからもつきあいが続いている。
 その彼に斉藤清の展覧会のために作品撮影と、ポートレイトをとってくれと依頼され、会津、ナカイズにお邪魔したのがかれこれもう12年位昔の話で、これが最初の出会いだ。なぜかあしげく通い、斉藤清を口説いた源藤君を差し置いて、私は最初から気に入られたらしい。
 気難しい方だと聞いていたのだが、快くカメラの前に立ってくれたし、しかも制作風景まで撮影させていただいた。その後、作品撮影をおえると、今度は、いきなり夕食までもてなしてくれ、その量の多い事。全部を食べきれなまったのだが、氏は夕張、小樽の思い出、芸術論、作品に対する思い入れ等を語ってくださり、私と源籐が予備校時代からの友人である事を知ると「友達って物は良いもんだなあ」としきりにうなずいてくださっていた。
 その時、私にとっては、かなり冗舌で、結構涙もろく、親しみのある人物像として斉藤清は記憶されたのだ。特に彼の笑顔が強く印象に残ったのだ。聞いていた話しでは頑固者で(ごめんなさい)好き嫌いが激しく、かなり怖い偏屈な(もっとご免なさい)作家さんだといわれていたのだけれども…。
 東京に戻り、ネガを現像して私はあぜんとした。写っている写真のほとんどが表状が硬いか、レンズをにらみつけているか、口が曲がっているのだった。私の記憶にある斉藤清のかをではなかったのだ。そう、もちろんデジタルなど知るはるか以前の事で、銀塩、しかも堂々のモノクロ写真だったのだ。
 源籐君に電話をし、もう一度撮影させてくれるようにお願いした。まさか表情が悪かったから撮り直しさせてくれとは口が裂けても言えないので、是非、笑顔の写真を1枚入れたかったので、とかなんか、言い訳していたように記憶している。
 一週間後、また会津坂下へ向かう。今回は私と斉藤氏のスケジュールを縫って、しかもこちらに引け目があるものだから、無理やり出かけたため、ほとんどのまず食わずで運転して行き、斉藤清のアトリエに着いたのはちょうどお昼ころだった。いきなり焼き肉屋に(それもかなり美味しい」案内していただき、斉藤氏は、ビールを飲みながら、この日も機嫌よくお話をしてくれた。わたしは何しろ腹が減っていたもので、バクバク食べてしまい、ほとんど残り物が無かったように思う。まるで皿までなめたような、と言う形容が当たっていただろう。もっともそうでなくてもかなり「飢えて」いた時代だった。斉藤氏はそんな私を「チャンと食ったな、おまえは良いヤツだ」と褒めてくださったものだ。(今でもなぜいっぱいご飯を食べると良いヤツなのか解らないけど)
 とにかく楽しい(お腹がいっぱいの)昼食の後、またアトリエで撮影させていただいたのだが、今回は前回の失敗を踏まえ、障子越しに入ってく自然光をメインにストロボを究めて弱く、ほんの影起しとアイキャッチのためだけに使用した。これはこれで、取材のポートレィトとしては成功したと思っている。
 所が、斉藤清は、白いスーツに着替えて出てきたのだ。おしゃれなボウタイまで巻き付けて!。「普段着みたいなもんもあったほうが良いかな?」なんてもう一着着替えてくれて。ご機嫌は良いままで、パリの思いで、版画を始めたきっかけ、会津への愛着などをとつとつと話しながら、私に(レンズに)むかって笑顔を向けてくれた。
 あれは斉藤清のサービスだったのだと思う。それも最大級の。
 わざわざ、東京から、それも二回も写真を撮りに来たヤツがいるんで、それなら、それなりの格好をしてあげよう、と言う…。
 その時、私はすでにスナップ写真では無く、肖像写真を撮っているのだと思っていた。そう、現像して見ると、まさに私の記憶の通りの斉藤清がネガに定着していたのだ。その時私は、写真の奥義に垣間触れる事ができたような気がしたものだった。対象を見る事、知る事、内側に入る事、あるいは十分なスタンスをとる事…。
 三回目に斉藤清にお会いしたのは銀座三越の展示即売会。この日はスナップをとるつもりで行ったのだが、彼のファンの方々の方々との「先々と一緒の写真」をとってくれと言うリクエストに答えるのに忙しい日であった。斉藤清は、笑顔でファンと話をし、手を握り、一緒に写真に収まっている。私には偏屈な芸術家にはまったく見えない。彼はいつも言っていた。自分の絵を喜んで買ってくれるファンがいるからこれで飯を食っていられるのだと。
 斉藤清は全うに、あまりに控えめにではあるが、自分の仕事のある部分を正しく認識している作家だったのだ。そして数回しかお会いする機会は無かったが、私の記憶の斉藤清は機嫌よくビールを飲み、肉を食い、私達のような若造相手に芸術論に花を咲かせ、人生の思い出を語ってくれたまるで肉親のようなおじいちゃんであり、作家だったのだ。
 怖い偏屈な先生、と言う認識は一度も無かった。
そんな思い出話をしながら、残された作品群を撮影してお墓参りをして帰ってきた。久々に出合った生の彼の木版画、特に初期のどこまでも力強い刷りを心から堪能してきた。死ぬほど忙しい日々の中の、とてもふんわかとした撮影だった。

二つのリターン

最近すっかり日記を書かなくなってしまい、なんか情けない。
いくつかの締め切りと、私にとってはやっとこなせる量のセミナーの嵐、当然こういう時に襲いかかる本業の数々。と言うわけで個人の能力を大幅にオーバーした二月三月だったのです。(言い訳する時だけで済ます調になるのはなぜ?)

やっと、実にやっとセミナーの嵐も行き過ぎ、仕事も減り(こりゃ大変だ!)締め切りも大きなものをひとつ抱えるのみとなり、春の虫よろしく久々に出てきました。

眠れない日々があったなんて!今では毎日布団に入ると大いびきで、毎朝女房殿に、「最悪!」と言われるようになってしまった。もちろん「一日に2時間以上(できるだけ)明るい物を見る運動」もまじめにつずけている。心理的なものかもしれないけれど、皆さんも不眠に悩まされている方がいらっしゃいましたら(時差ボケにも聞くそうですよ)是非おためしあれ。効果は絶大でした。

もう一つ。車を売っパラってどうなったか?
ほとんど変わらない日々を過ごしている。あるいて、あるいはタクシーでロケに行けるように機材をやや買い足したりしたが、そのおかげでいまだにレンタカーさえ借りていない。歩き(電車)とタクシーでほとんど済んでしまっているのには自分でも驚いた。もっとも車を持っているアシスタント君に助けてもらっているところも大きいけど…それでも車代(っていうのかな)を追加する事でレンタカーよりは気楽に動いてもらえるので、それなりに良いんじゃなかろうか?

車を運転しない生活はあたしのあこがれだった。もっと早くこれを実行していればなあ、と思う。

そして車を維持する必要が無くなった分、浮いた金額で新しい企画が持ち上がった。(これだからお金が貯まらない)
その件に関しては、また、おいおい書こうと思っている。

私車を捨てました。

車を持たないカメラマンって業種的に許されるのだろうか?
カメラマンという仕事は運転免許必須の仕事だと言われています。もちろん車も必須アイテムに入っているのではないでしょうか?
私も一台所有しています…が、ここの所動かないのです。スタジオは動いています…何とか。
週に1回以下(つまり月に4回以下)しか稼働率が無いところで月々の駐車場代金を支払っています。もちろん購入費、税金、保険、ets…。多分6年で償却するとして総額で毎月15万円は支払っているでしょう。
これはどう考えても無駄なのではないか、という考えに取りつかれて1年以上経ちました。
元来車の運転は不得手な上に嫌いなのです。何処の電車の駅からも遠かった練馬時代は毎日のように車に乗り、最高1年で9万キロ以上乗った時期もあったのですが…神田岩本町にスタジオを移転して以来、現像所は集配に来るわ、お客さんは商品を持ってきてくれるわ、自分の移動は電車の方がはるかに早くて運が良いと寝る事もできる。ホントに車に乗らなくなってしまったのです。
車の移動は私は労働だと思うのです。自分で運転している限りですが…とくに渋滞している間など、あたしが何をしたからこんな状況におかれなければならないのか、解らなくなります。
誰かが運転していてくれればその間にテキストを打ったり(日記を書くため?)考え事をしたり、電話で打ち合わせが出来ます。でもその運転を打ちのスタッフにやらせてしまっては、彼の貴重な時間がなくなってしまいます。
一番感じたのが「フォトのつばさ」を使った時。帰りの電車や車の中で(もちろん運転していない時)セレクトを全て終わってひどい時にはNikon Capture でのバッチ処理まで指示できた時の事です。
「ああ、時間はこんなところにもあるんだ」と。
機材はうまく整理すればタクシーでロケに行ける!
月に1~2回でよければレンタカーでいいじゃないか?
お客さんに迷惑さえかけなければいくらでも方法はある。

都心のスタジオに移動し、仕事の質も変化して、ロケからスタジオ仕事にどんどん移行しているうちの場合、車は不要だという結論に達したのです。

何事もやって見なければ解らない。またロケ仕事が増えるかもしれないし…。とにかくテストケースとして2月いっぱいで車を手放す事にしました。さて、これが吉と出るのか凶と出るのか?
本日Gulliverに売却。追ってレポートします。

眠れない日々

 今年の初めに深夜仕事があった。マンションの撮影なのだが、夕方7時から深夜、撮影しきるまで、という仕事が二日続き、昼間は寝ていて、夕方に仕事に行く生活を休み明けにやって締まったら、いきなり体のリズムが狂い、夜、寝る事が出来なくなってしまった。不眠症等には今まで殆ど縁が無く、ベッドに足をかけた途端にもう寝息を立てているという何処でもどんなところでも眠る事ができる人間だったのに。
 ある日もどうしても眠れなく、仕方なく4時ころ起き出して仕事を開始。そのまま1日起きて無理やり矯正しようとしたのだが、これも結局不発に終わった。
 人間はある一定量の光を浴びないと脳内に鎮静作用を起す物質が作られないのだそうだ。いや、浴びるというよりも目に光を入れる事が重要らしい。確か1万ルクス以上の明るさを2時間以上目に照射するのだそうだ。一万ルクスというと曇りでもなんとか、可能な光量だ。晴れていれば窓際でも十分に取り入れられる…。
 私が外をあるくのは朝の15分くらい。(その暗いで自宅から会社に着いてしまう)その後はカラーマネージメントを謳い上げているカメラマンらしく、約100cdで発光するディスプレイに合わせた明るさのスタジオ(大体1200ルクス程度)で、窓は閉め切って安定した環境を手に入れて一日中暮らしている。自宅に帰るのは当然深夜が多く、一万ルクスは手に入らない。
 そう、私は他人よりも光を浴びていないのだ、という事に気がついた。この光りを見る事により出来た鎮静作用をつかさどる物質は睡眠をとる事により、増幅されるのだそうだ。眠れないという事は…脳内物質が出来ない、だから眠れない。だからもっと脳内物質が出来難い。ますます眠れなくなる。短気になる。ばか食いをする。太る。酒を飲む。集中できない。どんどんばかになる、という負のスパイラルに落ち込んでいくのではなかろうか???
 というわけで危機を感じた私はわざと遠回りして会社へ。15分遅刻してもなんのその。怒りっぽくなるよりは良いじゃないか?
 会社の窓側に PowerBookG4 15 inch を移動し、カーテンをこじ開け、カラーマネージメントもディスプレイ環境もなんのその。ばかになるよりは良いじゃないか。とばかりに明るい窓際で仕事をする。(といっても今日は書き物の仕事なんで、ま、色はみていないんだけど)
 夜に自宅に帰って仕事をすると時々アドレナリンがでてしまい、眠れなくなる事がある。そこで今日は仕事を自分させないで、焼酎を飲んでカレーうどんを食って、救命救急24時を見て寝るんだ。
 こんな日記を書いている場合じゃない。これ以上太ったらどうするんだ??
 おやすみなさい。

新年明けましておめでとうございます。

新年明けましておめでとうございます。

とぎれとぎれの日記ですが、あきらめずに今年も細々と書き続けていきたいと思っています。

今年の暮れからお正月にかけてやった事をまとめて…

トイレ掃除
加湿器の掃除
一年中回っている扇風機の掃除
エアコンのフィルター掃除

会社の配線の見直し
OSXサーバソフトを10.3.1にアップデート
(これはパーミッションの処理が完ぺきになって、嬉しい限り)
夏用の布団を掃除して格納

借りっ放しだった白い巨塔、田宮二郎版(全18巻)を観覇。(こんな言葉はありませんね。でもそういう気分なのです)いやあ、新しいシリーズよりもずっとずっと良かったと思うけど、古さがいかんせん、もの足りなかったですね。大地喜和子が良かったけど。

持ち込んだ原稿2本(内一本の最後のページは明日に持ち越してしまいました)

知りあいの不機嫌なG5を預かり、調教を試みるも完敗。こんなに調子の悪いマシンは初めて。メモリでもなさそうなので、ビデオボード当たりが原因なのかも。自動選択ツールや[塗りつぶしツール]で暴走してしまう。これにはかなりの時間を費やしたんだけど…

なんと撮影からデザインまでのお仕事を一本、お休みに持ち込んでしまい、 InDesign CS と格闘。ジュエリー18個と長いロゴのパス切り。これにも丸一日使ってしまった。

結局殆ど毎日マシンの前に座り、時々会社に行き、それでも普段よりもかなりのんびり過ごした年越しでした。津波の被害の大きさに、頭がぼおうっとしたまま、明日の仕事始めを迎えます。

今年もぜひご贔屓にお願いいたします。

AdobeRGBディスプレイ


 長年の夢がかなった。それは AdobeRGB色域を再現出来るディスプレイ。私のスタジオにどうしても導入したいと望んでいた物だ。画像処理に向くディスプレイではないようだ。応答速度がびっくりするほど遅いので、[スタンプツール]などを使用したりスクロールなどをしていると下の色が残ったり、奇跡が残像になって残ったりして、ちょっと異様な気分になり、パフォーマで画像処理をしていた頃を思い出してしまう。しかし、リファレンスとしての価値はやはり高い。ナナオが出したLCD…CG220は実用においてはやはり最高水準の物だろうと思し、今度NEC三菱電機が用意しているというバックライトにLEDを使用したディスプレイも期待大だが、やはりそれらは画像処理にも、色域確認にも、健康面においてもそれだけの価値があると思う。ただしCG220が70万円で、NEC三菱電機のはもう少しするのではないだろうか?。現時点でけして高いとは思わないが、やはり手が出なかった。それよりも20万円でこの色域を確認できるディスプレイを手に入れる事が出来るという誘惑には勝てなかった。もっとも、私が現在使用しているディスプレイがかなりへたりきっており、買い替え時期がきていたという事ももちろん後押ししている。
 通常はこちらをメインディスプレイにするのだろうが、私の場合、応答速度が遅いという問題を解決するために、パレット用のディスプレイとして使用し、ファイルブラウザを大きく表示してリファレンスとして使う事にしたが、これが実に都合が良く、気に入っている。スタンプツールナドハL567の方で行っている。狭いけど全体像は左側の RDF225WGで観ているのでさほど気にならない。
 ただ、何でベゼル(躯体)が黒なんだろう?。まわりが黒いと、中の画像がコントラスト強く、彩度高く見えてしまうのは分かり切っている事だ。そのため、さほど面白くない絵でも良く見えてしまうという弊害があり、(これを悪用して個展などで黒マットの額に絵や写真を入れるやからがいるが、あたしはそういう人たちは、絵に自信がないんだろうなといつも思ってしまう)これを避けるためにグレイのビニールボードをくりぬき、ベゼルの前に両面テープで止めて見た。これが結構いけて、ほっとしている。
 写真は向かって左が RDF225WG。右がナナオのL567。左下が PowerBookG4 15 inch 。わざと AdobeRGBで掲載しているので、[別名で保存]でダウンローして見ると、良くわかります。