2003年を迎えました。明けましておめでとうございます。今年は、今年こそはCMS元年となりますよう心よりお祈り申し上げます。ぜひ、おめでたい年になってほしいものだと願います。五穀豊穰。安産祈願。経済安定。仕事躍進。
その辺とは別にすでに昨年中に用意されている日記をしばらく書き続けることにします。今日は新年らしくRAID装置のお話。(ってなんのことやねん)
サーバにヤノ電器製のRAID装置をつないで半年以上が過ぎた。本来の安定性、安全性などは1年以上経ってから論じるべきだろうが、目に見えてワークフローが変わってきたので、とにかく私たちの仕事に及ぼした効果について少々書き記したい。
RAID装置の導入
サーバマシンはG4-400MHzに256×4枚で1Gのメモリー。これにOS X Server v1.5.1という構成ではじまった。
以前はこのマシンに ULTRA SCSI 160でハードディスクを3枚つないで作業用ディスクにしていた。本来のサーバとしては別にソフトミラーリングでハードディスクを組んだAppleShere IP 7.6を設置していたので、そこが壊れてはならないデータ倉庫ということになっていた。つまりパッチを当て続けて作ったシステムだったわけだ。
以前は、NASを導入しようという計画があったが、さまざまないきさつがあり、とん挫してしまっていた。早いとこ安全で、信頼できるサーバが欲しかったのだが1年間何となくそのままにしてしまっていた。データを失踪させるという大変なトラブルがあり、その後ヤノ電器さんのRAIDマシンに出会った。
2年前だったら、いったいいくらしていたのだろう? 。ATAハードディスクの台頭は私たちに“巨大なストレージの私物化”を可能にしてくれた。40、80,120Gのハードディスクを8枚積むことができる、以前の私ならきっと“化け物”と思ってしまうような構成だ。オーバー100GのRAID5は確か200万円は軽くしていたと思う。その値段ゆえ躊躇していたのだが1年たち、ついに導入する気になったのはカメラマンとして当然してはいけないことを起こしてしまったからだ。
データの保存には気をつけましょう
データの保存には気を遣っていたが、そこは人間のすること。どっかに抜けがある。(RAIDされたというか、保護されたディスクスペースは40G程度しか確保できていなかった、という理由もあったのだが)
スタジオを引っ越すときにいつまでたってもデータの仕上がりを要求してこないお客様がいて、仕上がりを迎えないまま、そのまま作業用ディスク(当時は作業用ディスクはRAIDされていなかった)に残っていたデータがあったのだ。こんなときは何かが起こるもの、とこのデータをCD-Rに焼いてバックアップをして、スタジオを引っ越した。
案の定、古いマシンが調子悪くなり2台がたてつづけに死んだ。その中に作業用ディスクも含まれていたのだ。ほとんどは別のディスクに元データもあり、完成データもCD-Rに焼いてあったので、事無きを得た、と思っていた。
しかし、その2週間後くらいに「遅くなってしまいましたが」と、件のデータを要求するメールが舞い込んだ。もちろんすぐに出来ますよ、と答え、そのデータを探したのだが、どこにもないのだ。何処のハードディスクの中にもない。そして焼いたはずのCD-Rさえないのだ。どうやら引っ越しの最中に処分した、焼きに失敗したり余分に焼いたりしたCD-Rといっしょに処分されてしまったらしい。
1ヶ月ほど捜索は続いたが、結局遭難したデータは出てこなかった。もともとデータ倉庫に余裕がないためにあっちに移し、こっちに移し、ということを繰り返してきた。その後遺症なんだろうと思う。一元管理ができるためには余裕というものが必要。それをこれでもかと教えてくれた気がする。
設置は驚くほど簡単!
そこで話しが元に戻るが、240GBのRAID装置の導入となったわけだ。本当は0.8テラバイトのシステムにしたかったのだが、引っ越しにお金を使いすぎ、ほとんど今日の飯にも困っていたので、ここは我慢、ということになった。(でも個人でテラバイト、という言葉を使用できるような時代になっちゃたんだ、とつくづく思う)
このマシンに決めたのはMACに昔から専用周辺機器を作ってきたヤノ電器の製品という安心感。更に電源の二重構造や搭載するハードディスクを徹底的にぶん回しチェックを入れてから採用するという念の入れように心が動いたのだ。
また一個のスペアーディスクを確保しても240GBの要領が確保できるという点。(40G 7台にデータをパリティごと分散保存するため実際の容量は40×6=240G。それにくだんのスペアーディスクが1台で合計8台のハードディスク)これで、たてつづけに2台まではハードディスクが飛んでもデータは復旧できるということだ。
実際の設置は驚くほど簡単。箱から出して、セルフチェックを行い問題ないというので、サーバマシンにつなげる。パーティションを切り、(私は後々のメンテナンスのために4つに分けたが)マウント。それだけでセットアップが終了した。
何だかあまりにあっけなくて、ありがたみがない。私の方で用があり、2度ばかりサーバを落としたことはあるが、それ以外は一度も止まらずにこの2ヶ月間動いている。
とにかく速い!
安心を買うつもりで導入したRAID装置だったが、それ以外にワークフローも激変した。はやいのだ。とにかく速いのだ。ほとんどローカルのハードディスクにデータをおいているのかと思うくらいはやい。
念のため大きめのデータを調整するときはデータをローカルに落として作業するが、自分たちのマシンには今作業中のデータ以外ほとんどデータは存在しない。すべてRAIDされ、集中管理ができるハードディスクにデータはおかれる。(もちろん納品が終わるまでは取り込み用マシンにも元データ、ハンドリングする人間のマシンに作業中のデータが更に2重に存在しているのは当然だ)
どうもスペック上はもっと速いようだ。ただサーバマシンの力が足りないのと、サーバとクライアントの間を1000BaseTでつなげば、もっと効果が上がるらしい。(現在1対1で、1GB 1.5分ほどのスピードが出ている。十分ではあるがアクセスが増えたときのことを考えると余裕を持っておきたい。)
バックアップの苦労も激減
そして余裕のあるディスクスペースはバックアップの苦労も激減させてくれた。2日か3日に一度はCD-R2~3枚に焼き込んでいたものが、現在は、3~4週間に一度DVDに焼込むだけでよい。それでも半分以上はサーバのディスクスペースが開いているのだ。
仕事がもっと繁盛したり、巨大なデータばかりを扱うようになれば、もちろん更に拡張しなければならないだろう。その頃はNASもも
Author Archives: sika
新潟電塾
2002年の年の暮れ。大みそかだ。やっとスタジオの掃除も終わり、自宅に帰って、風呂場とトイレを掃除する。今年もさっさと過ぎていくようだ。この日記はぎりぎり2002年にかかれているため、去年と今年が混同してしまいそうだがそれを念頭に置いていただきたい。節目というものは理屈ではないようだ。
昨年まで阿部助教授とふたりで関西電塾、中部電塾を運営してきた。ちなみに渋谷にある写真学校でも週一回、3コマ(つまり約7.5時間)の講義も受け持ってきた。東京の電塾と合わせると月に7~8日の出動である。ま、その間に本なんぞを書くという大それたことを始めてしまったので、毎日のほとんどが訳が判らなくなってしまっていた。特に関西、中部電塾は毎回それなりのネタをお持ちしないと申し訳ないので、準備に時間とない頭を使う。ネタを見つけて、画像を仕込む。この作業がとてつもなく重い。(もちろん私にとっては、という意味だが)
私の場合は頭の中の引きだしが少なく(しかも中身が薄いと来ているので)このネタを仕込むのに時間がかかるのだ。しかも学校の講義のネタも毎週更新しなくてはいけない。テーマを変えるたびにこの作業を繰り返していた。もちろん私にとってはとてつもなく良い勉強の機会となり、私なりにひとつの“色彩論”というものを練り上げる土台となったのは確かだ。これは元々は小山大人の12色相回転法が引き金になり、学生時代に昔散々勉強した色彩論に焼けぼっくりに火が付いた形で個人的に燃え上がってしまった物だ。おかげさまで私的には“全ての目に見える事象は色彩の対比に由来する”という結論にたどり着く(そんなことは誰でも知っているか?)きっかけとなってくれたのだから多いに感謝しなくてはならないのだが。
さすがに仕事がおろそかになり初めて、昨年はどうも本業の成績が芳しくなかった。しかも新しくやりたいことが首をもたげてきたので、というのは以前計画して練馬の奥という環境からやり切れなく、現在は頓挫しているアマチュア向けとプロ向けのデジタル講座の事なのだが、せっかく秋葉原に出てきたので何とか再開したいという思いが強く、やむなく整理することになった。昨年末に写真学校には通知していたが、関西、中部電塾も運良く卒業?(引退という説もある)ということになりこれで体をそちらの方に向けることができる、と思っていた。
ところがどこでどうなったのか、新潟電塾の風間さんから、私に新潟電塾の年間計画と実際の運営に参加するようにとのオファーが入った。光栄ではあるが、さすがにちょっと考えてしまう。でもこの性格、色彩論を中心に年間計画をたてることを条件についOKしてしまった。
ご承知のように新潟はうまい県である。米、酒、へぎそば、魚、カニ、ああ、もうたまらん。そんなことも誘惑のひとつだったのかもしれない? とにかくカリキュラムを新たに考え、また新しい一年を踏みだすことになった。
ホントは書きつづけていた本も今年の年頭には完成している予定だったので、OKしたのだが、これが事情により更に半年も伸びることになってしまったのだ。(もっともその最初の原因は私にあるのだが)
いやいや、これがボディブローのようにじわじわと効いてくる。結局デジタル講座はお預けのまま、この年もくれようとしている。
皆さまもよいお年を。
ハンディの大移動は三度ある
年も暮れだが、今年の初めの話。2月の寒い中、練馬の古戦場から千代田区へと移動した。その顛末。
甘く考えていた。区が変わるため本店の移転登記やらはたいへんだろうと思っていたのだが実は問題はそんなところにはなかった。11年間一軒家に住んでいた、という事実がこんなにも大変なことだったとは思ってもいなかった。何がたいへんって荷物。持ち物。確かに狭く感じていたし、その割には一杯モノを持っているな、と思っていたのだが、それがこんなにも大変なことだったとは。もともとあたしは物欲が強く他人にはごみに見えるものでも『宝物』であることが往々にしてある。
御前崎の海岸で拾ってきた「石」。流木。その辺で拾ったつぶれて錆びたコーラの空き缶。そんなものが所狭しと積み上げてあった。スタジオ以外にも駐車場に増設した物置、屋根裏部屋(ここが10帖以上もの広さがあったのが災いしたように思える)古い古いチラシの写真。ラフ、色校。撮影台なんぞを作ったときのあまった木切れ、ベニヤ、小割りにたるき。使いかけの塗料。ヨンパチのいた3枚を張り合わせて作った立込用の巨大なバック。中額時代に初めて買った(当時の10万円って物凄いものがあった)144MHzのトランシーバー。初代からずっと買ってた「COM」のバックナンバー。はては牛乳やジュースの紙パック(あたしは主婦か?)使わなくなった猫足のイスにテーブル。アウトドアに興じていた時代の炭。カメラの空箱やコンピュータ、周辺機器の空箱。1m四方もある発泡スチロールの塊。(いつかこれで何か作ろうと思ってたんだね。きっと)故障したけどそのまま物入れに使われたいた冷蔵庫。こんな風に数え上げればきりがない。涙を飲んで片っ端から破棄をした。それでも新しいスタジオに移動した荷物が3トントラックに3杯もあった。
引っ越しの手順として、自宅もスタジオも一気に引っ越しできるとは思っていなかったので、まずスタジオ部分だけを引っ越しした。そこでまず最初のつまずき。もちろん移転するスタジオには荷物が十分入るように高くて巨大な棚や作業スペースを確保するためのテーブルなどを作り付けて荷物を持ち込んだのだが、これが全く計算違い。棚が十分に稼働していなかったこともあり、引っ越し荷物は全て床の上におかれることになった。トラック2杯分くらいでほとんどスペースが無くなり、後は高く高く積んでいかれる。途中で引っ越しやのお兄さんがこれ全部はいりますか?といってきた。1時荷揚げを中断するから何とかスペースを作れ、ってことで、1時間ほど悪戦苦闘してスペースを開けた。
もう1台分のトラックの荷物が入ったころは入り口から中心にむかって歩く左右60Cmほどの通り道と突き当たって更に左右に歩くこれも60Cmほどの小道があるだけで、通り道の左右は高くつまれたパッキンの壁。何処から手を付けたら良いのかわからない状況だった。
「何事にも、いつか終わりは来る」そう信じて片付けを始める。けれども「ムリは通らない」事も事実。どんなに場所を移動しても収まらないものは収まらない。結局更にトラック1杯分の私にとっては宝物の“がらくた”を破棄することにした。“片付ける”って言葉は“破棄する”って言葉と同義語だったということを初めて知った。 更に棚を追加しこれでスタジオには“窓”というものがいっさい無くなってしまった。もっとも写真スタジオ“特にデジタルスタジオ”に窓は不要なのだが、“空気が悪くなる”ってことは事実。もちろんその手の空調は完備している訳ではないのが大問題だ。それでも何とか本来の意味で撮影ができるようになるまで約1ヶ月もかかってしまった。その間も撮影は入るし打合せも入る。動きながらの片付けというものはこれがまた大変なものだった。
エアコン
練馬のスタジオから持ち込んだものに200Vで動く動力のエアコンがあった。確か30万円位したものなのだが、これを取り付けるためにも大騒動があった。なにしろ窓の外しか室外機を吊る場所が無いのだ。4Fという高さは上に上げても下に下ろしても室外機までが遠い。勢いエアコンの馬力が落ちてしまう。で、外に吊るのに15万ほどかかるというのだ。ああビックリ。そして取り付け工事の日。
1~2時間で終わると言われて、結局終わったのが深夜の2時ころ。一番の理由は何でも8mmの六角ナットが無かったらしい。(特殊な工具がいるので、困ったとついに白状したのだが、聞いてみるとあたしがもってるやつだった)最後は部屋はぼろぼろ、後かたずけもなく、それからがたいへんだった。なにしろ翌日に打合せが入っていたもので。部屋中にまったほこりを掃除し、移動した機材を戻し、コンピューター類の再配線をし、配置を戻す。一人でやらなければならない羽目になった。魔、デモ、これも無事? に付いた。
自宅の引っ越し
スタジオを移転している間に自宅も移転する計画。本来はスタジオ部分の片付けが終わってから、自宅部分の引っ越しという段取りだったのだが、これが全て平行しながらの作業になってしまった。それでも決行したのはスタジオの片付けが終わらないかぎり私が遠距離通勤“片道2時間”にはもう体力が付いていきそうもないからだ。実はこの段階で自宅は見つかっていなかったのだ。
自宅探しから始まったのだが多くの問題を含めていた。なにしろ条件が多いのだ。
まず、第一にネコを飼えるマンションであること。うちにはもうご存知の片も多いと思うが、“おかく”と“ペコ”という2匹の娘がいる。もちろん耳が大きくしっぽの長いのが自慢の美猫だ。…といっても既に“おかく”は齢18を数えるれっきとした「もう少しで化け猫」というお年寄りなのだが。彼女らについてはまた別の章で書くこともあると思うので簡単に済ますことにしよう。
第二にスタジオから歩いて15分という距離。最大20分の距離であること。これはあたしが太りすぎて「運動」というものから全く無縁になり、スポーツクラブなどに通う気もなく、おまけに「一人でジョギング」等決してやらない種類の人間だから。当然うちは共稼ぎの「同伴出勤」ということになり、電車を使うとかなり近い駅でも一ヶ月に3万円近い定期代になってしまう。それなら3万円くらい高くても近くに住みたい。おまけに深夜になってタクシーで帰るってことも多くあるとすると(いや絶対にあるに違いない)そんな交通費まで含めると家賃は高くとも、結局近いほうが安いのではないか、ということになった
でも第三に値段は13万前後。これ以上はどうしてもでない。
第四に底層階。実はうちのニョウボどの、高いところが不得意。5階から上はだめらしい。私も初めて知っ
た。
第五に駐車場が近い事。会社の近くの駐車場が高いし、しかも家の車が入るところが内と来ているので、勢い自宅に駐車場をもつことになる。(台東区は千代田区よりも1~1.5万円は安い)
この五つの条件を満たすマンションであれば、日当たりが悪くたって(2Fを希望している時点で日当たりなどには縁がないはずなんだが)我慢しようということで、マンションの真下に駐車場のある3Fを悦子が見つけてきた。ベランダが焼き肉パーティを開けるほど広い。しかも浅草橋の駅から5分。会社まで15分。ネコはだめ、っていってたのも粘って粘って何とか勘弁してもらえた。
何処の不動産屋でも「ペット可」といいってるのにもかかわらず、「ネコはだめ」といわれたのだ。「ペット可」、ってのは「小型犬は可」、って言う意味だと初めて知らされた。何処まで行っても賃貸業は「自分のうち」であり、客の立場に立って商売していないんだなと思う。これでは不動産業は傾くはずだ。礼金制度だって文句はいろいろある。こっちは家賃払ってやってるんだぞ。“ペット可”ではなく、どこか“ペット歓迎”と言う表現派できないのか?ネコは壁で爪を研ぐ。それは解るが、それならそこに対応したマンションは造れないのか?といいたいことはいくつもあるが、ま、これはまた別の機会にということで閑話休題。
実はインターネットで検索して、当りの良さそうなところを片っ端から電話を入れていたのだが、実はこれ、ほとんど同じ物件で、最後はひとつの不動産屋さんにみな繋がっていたらしい。仲介してくれたかたもネコを飼っているらしく、結構粘ってくれ、不動産屋も“朝からネコネコって今日はいったい何なんだ?”ということで、最後に重い腰を上げて大家さんを説得してくれたらしい。この大家さんはとても物分かりのよい方で、ネコをいれるのは初めてだから、保証金を多めに積んでくれ、とおっしゃったのだ。その心は、最後にうちがでるときに、普通のいぬと同じような結果だったら、そのまま返す。もし汚れ方がひどかったら、その保証金を使って直してくれ、という、実に理路整然とした理屈で了解して下さった。
かくして私たちはこんなラッキーなことはないと自宅部分をこれも3tトラック3杯を連ねて練馬から浅草橋に引っ越してきたのだ。
そして一週間後、新築マンションのチラシがポストに入っていた。これがまた、間取りが私たちの理想に近い間取りだったのだ。しかも今のうちから歩いて2~3分のところ。悦子に冷やかしに言ってきたら、と言ってしまったのが、こんな結果を引き起こそうとは。
ついに3度目の引っ越し
実は予想よりも狭かったのだ。一軒家の威力を思い知った私たちは更にその意識に追い討ちをかけられることになった。タンスを捨て、机を捨て、それでも生活環境は整わない。おまけに納得ずくで越したはずなのに、日が当たらない、ってことがこんなにも辛いことだとは知らなんだ。なにしろ朝、起きることができない。どんなに疲れていても、練馬にいたときはそれでも起きることができたのに、こっちに来てからすっかりだめになってしまった。何か“起きる”という気力が沸いてこないのだ。朝日というものはこんなにも大事なものだったとは知らなかった。北向きの部屋で寝ていたのだが、それでも朝はしっかり明るくなり、ちゃんと目が覚めていたのだ。おまけに家に帰ってくる喜びもない。と言うのは、狭くて居る場所がないのだ。2人が座ると、もう身動きできない。一人が動くために、もう一人がどかないと、トイレにも行けない。自宅でマシンを開くことさえ、はばかれるのだもの。移動の際は体を横向きにして動く(私の場合は実はあまり変わらないのだが)。洗濯機置き場がキッチンの隣りにある。どう考えても生活導線をうまく作り上げることができない。荷物を入れるまでは判らないことだった。こんなになってしまうと仕事にもはっきり影響が出始めた。でも納得ずくできたのだから、なかなか口に出していえないでいた。あたしって結構内気なんだ。
悦子が新築マンションを見てきたらしい。まるでセールスマンのような勢いであたしにどんなに素晴らしいマンションかを説明してくれる。そして夜の9時になってもいから見にいこうと誘うのだ。
南と西側に大きく開いた窓があり、交差点に面しているので、陽を遮らない。新築マンションの2階で宅配BOX付き(もっとも今のマンションは全てその辺の設備は調っているのだ)。今より少し広いだけで荷物が完璧に収納できる。しかも仕事をするスペースを確保でき、駐車場も真下に一コ開いていた。浅草橋の駅よりは遠くなったが、秋葉原に近い。と言うよりもほとんど浅草橋と秋葉原の中間といったところか。昼は交通量が多いが、夜は静か。
何と言っても一日中お陽さまが入る。
悦子も実は同じ気持ちで板らしい。彼女も納得づくで決めたマンションだったので、今更意見を翻せないでいたのだ(これは強情のせいか?)。ところがこのマンションを見てしまい、その強情も音を立てて崩れ去ったようだ。
“生活できる、そして何も使わないスペースを確保できる”と言うことは大きなことだ。と言うよりも既に絶対条件。昔のように四畳半で生活できる体ではなくなってたのことに改めて気がつく。それは解るのだが、引っ越してから、まだ二週間程度しか経っていないのに、と言う気持ちがあまりにも強い私にこれを売らねば今月もノルマを達成できないセールスマンのような勢いで私にメリットを説明する(実はこいつはセールスの方にむいてるんじゃないか?)。私もついその気になって間取り、家具の配置などを考えているうちに心が動いた。そして最後は「あたし達はいないけど昼はネコ達がいるんだもん。お日さまが当たらないネコはあまりにかわいそうじゃないか!」と言う錦の御旗を掲げることになった。
その後は値段交渉。さっそくインターネットで販社を検索してみると、来月決算月。昨年上場し、赤字。今年は株式公開記念で1割の配当を約束している。で、2部屋売れ残っているのだ。これはたたける!とおもってある数字に落ち着いたところで義父に報告に行った。さっそく事情を説明した途端、「それはもっとたたける。おまけに台東区の平均相場よりまだ、ずっと高いじゃないか?そんなに豪華な設備のマンションじゃないんだろ?」と言われた。慌ててその当りを調べると、まさしくその通り。すっかり舞い上がり、実は他のマンションはいっさい見ずに周りの相みつさえとらずに決めてしまったのだ。探してみるともっと広く、もっとやすい物件が見つかった。でも決めてしまったし、とぐずぐずしていた
ら銀行の融資額が予想よりも少ないことが判明した。個人経営の経営者って可なり確実な担保をもたないとけっこう信用がないものだね。十分理解はできるけど。これでは買いたくても買えない。あたしのところには既にほとんど手持ちのお金が無くなってしまっていた。後は販社が買える値段まで負けてくれなくては買うことは不可能となり、数回交渉があったが、結局あきらめることにした。そこで焦って別の物件の確認しにいくと、最高の環境の(しかも安い)マンションはタッチの差で売れてしまっていた。
一から出直しである。
マンション探しが始まった。つてを頼って、新築、中古を当たり、ついにこれなら、と言う物件を探し当てた。少し遠くなるが、設備が充実し、更に広いマンションだ。ところが購入のための書類がほとんど前の販社に行っていたため、それを取り戻すべく電話すると、私たちの言い値近くまで下げたら、買うか?と言ってきた。立地的には最初に見たマンションがもっとも良かったこともあり、別の意味で振り出しに戻ることになった。実はこれも「て」だったらしいが、この手の交渉ごとに弱いあたし達は簡単にOKしてしまった。その後義父に経過を電話すると、「ま、そんなとろだろ。でももっとたたけたな。それが業者の手だよ。」と言われてがっかり。でもこれでやっと引っ越しすることができる。これ以上仕事以外のことに体力と数少ない知力を使い果たすわけにはいかない。
以前と同じ引っ越し屋(日通だったが)に「3度目なんだから安くして」と食い下がり、あきれられながらの引っ越し。大家さんにも事情を説明し、(これが一番つらかった。大家さんはとてもよい方で、私たちもなついていたのだもの)こんなに短い期間で出ていく人たちは初めてだ、とこれもすっかりあきれながら、何と敷金を全て返してくれた。これは大きなお金だった。これで何とか新しい家具を買いそろえることができたのだ。感謝。
かくして、約二ヶ月にわたるどたばたの引っ越し騒動は幕を閉じる事になった。めでたしめでたし。(もっとも代表者が移転しないと本店登記ができないため実際には今も引っ越しの手続きは進行まだしていたのだが、物理的な引っ越しはこれで完了した)さっそくうちのネコ達は壁を好き放題ひっかいている。私たちはほとんどいないが、何かの拍子で日中に自宅に帰ったときに、日だまりで丸まっている“おかく”と“ペコ”を見る度に幸せを感じているこの頃ではある。
日記なのに長めの前書(言い訳)
半年のつもりで日記を休止したのだがなかなか再開できずにただズルズルと時間が過ぎてしまった。雑用とはこんなにも時間をとるものなんだろうか? いやいや、正直に言って単に私のポテンシャルの低さゆえだろう。しかし、いつまでもそんなことをいってはいられないのでついに!。ついに日記を再開することにした。再開にあたりタイトルも一新することに。これで何となく踏ん切りもつくというものだ。ただしいきなり始めるのも何なんで、お休みの間の事柄をいくつか書き留めておきたい。なにしろビッグイベントがいくつもあったのだから。
まず、第一に写真学校をやめたこと。第二に中部、関西電塾も卒業させていただいたこと。第三に新潟電塾の1年間のスケジュール組みを任されたこと。第四にスタジオ、自宅を引っ越し(それも合計三回も)した。(これがもっとも大きなイベントだった)そして第五に本を一冊仕上げた。本を書くことがここまで大変な作業とは思ってもみなかったのだが、これがやっと形にななった。これも一年近くかかった大仕事ではあった。幸いなこと?にPhotoshop Elements は、本ができ上がるのを待っていたかのように、v2.0の発表があり、(この時点では関係者だけの内々の発表だったのだが)あえなく発売と同時に、過去のものとなってしまった。さらに第六としてデジタルカメラのワークフローを考えなくてはならない羽目になった。これが今もっとも問題になっていること。細かいことではあるが、七つ目にスタジオのワークフローを一新しサーバシステムに矢野電気さんのレイドシステムを追加した。ほんとは1テラバイト近くに増強したかったのだが、お金の問題もあり240Gバイトでやりくりしている。実はこれも結構大きな革新を私にもたらしたのだ。引越も重なったのだが、システムの入れ替えは結構大変だった。(サーバ自体は問題無く移行したのだが、その周りのメンテナンスが凄かった)
第一と第二の出来事は現在計画中の別の企画のため。どう転んでも私には分身の術は使えない。(もし使えたらきっと分身したぶん中身が薄くなっちゃう。)また、結構仕事にも影響が出始めたので残念ではあるが私の仕事から外すことにした。やめてしまったことにうんぬんしても仕方がないので、これは割愛して日記を再開するに当たりお休み中の第三から第七までの出来事を少々まとめて見たいと思う。
既にこれって日記じゃないよね。と思いつつ…
ところで新しいタイトルだけど、昔のタイトルって同読むのか知ってる人はいたのかしら? カフキュウムアン? 実は自分でつけたんじゃないんで、あたしもよくわからないんだもん。
そこで新規にタイトルコ~~ル。といきたい。
それは「カノッサンの屈辱」
中世ヨーロッパ史のハイライトの一つである「カノッサの屈辱」事件つまり、1077年「教皇と、教会を統治の手段に利用していた神聖ローマ皇帝との間に叙任権闘争と呼ばれる衝突が起こり、グレゴリウス7世は皇帝ハインリヒ4世を破門した。その後、皇帝はこれを好機とするドイツ諸侯の反乱をおそれて、はるばる雪山をこえてイタリアのカノッサで教皇に謝罪した事件とは全く関係ない。ハインリヒ4世にもグレゴリウス7世にも、その後のオスマントルコへのクルセーダス派遣に至る史実にあやかっているはけではもちろんない。(もちろんあの私が結構好きだった仲谷昇がナビゲートする深夜番組にも関係ないのだが、…覚えておいでの片もいらっしゃると思う…何となく気になっていたタイトルであることは事実)ただ単にごろ合わせで決まったタイトル。
何処がごろ合わせかっていうとあたしが大学時代(更に細かく分けるとは大阪の大学と東京の大学時代があるんだが、大阪の方でのこと)何故か「しかの」ではなく「かの」と呼ばれていたことに起因するのだ。(どこが)既にその頃三郎を決めていたあたしは大概の学生より2~3つは年上。おまけにまばらなヒゲはやして、自分のことを「わし」という癖があった。自然と皆からは「かののおっさん」とよばれ、それが短くなって「かのおっさん」–「かのさん」–つまって「カノッサン」ということになったらしい。実は自分自身何処でこのような変遷があったのかよく記憶していないのだが、とにかくそういうあだ名になってしまったのだ。「屈辱」に関しては全く意味がない。もっとも日記なんて屈辱のうっぷん晴らしだったり、反省だったりで、そう言えないこともないか?ってことでタイトルを『カノッサンの屈辱』とすることにした。カノッサンとはQuanossonと書く(勝手に決めた)。あたしが敬愛する現代音楽の作家、クセナキスのアナクトリアやメタスタシスに響きがにていないこともない。(ギリシャネーム?)ということでお気に入りなのだ。
と言うわけで、この年末から新年にかけての数日で一気に激動の(私にとって)1年以上分の遅れを取り戻したいと思う。