ハンディの大移動は三度ある


 年も暮れだが、今年の初めの話。2月の寒い中、練馬の古戦場から千代田区へと移動した。その顛末。

 甘く考えていた。区が変わるため本店の移転登記やらはたいへんだろうと思っていたのだが実は問題はそんなところにはなかった。11年間一軒家に住んでいた、という事実がこんなにも大変なことだったとは思ってもいなかった。何がたいへんって荷物。持ち物。確かに狭く感じていたし、その割には一杯モノを持っているな、と思っていたのだが、それがこんなにも大変なことだったとは。もともとあたしは物欲が強く他人にはごみに見えるものでも『宝物』であることが往々にしてある。
 御前崎の海岸で拾ってきた「石」。流木。その辺で拾ったつぶれて錆びたコーラの空き缶。そんなものが所狭しと積み上げてあった。スタジオ以外にも駐車場に増設した物置、屋根裏部屋(ここが10帖以上もの広さがあったのが災いしたように思える)古い古いチラシの写真。ラフ、色校。撮影台なんぞを作ったときのあまった木切れ、ベニヤ、小割りにたるき。使いかけの塗料。ヨンパチのいた3枚を張り合わせて作った立込用の巨大なバック。中額時代に初めて買った(当時の10万円って物凄いものがあった)144MHzのトランシーバー。初代からずっと買ってた「COM」のバックナンバー。はては牛乳やジュースの紙パック(あたしは主婦か?)使わなくなった猫足のイスにテーブル。アウトドアに興じていた時代の炭。カメラの空箱やコンピュータ、周辺機器の空箱。1m四方もある発泡スチロールの塊。(いつかこれで何か作ろうと思ってたんだね。きっと)故障したけどそのまま物入れに使われたいた冷蔵庫。こんな風に数え上げればきりがない。涙を飲んで片っ端から破棄をした。それでも新しいスタジオに移動した荷物が3トントラックに3杯もあった。
 引っ越しの手順として、自宅もスタジオも一気に引っ越しできるとは思っていなかったので、まずスタジオ部分だけを引っ越しした。そこでまず最初のつまずき。もちろん移転するスタジオには荷物が十分入るように高くて巨大な棚や作業スペースを確保するためのテーブルなどを作り付けて荷物を持ち込んだのだが、これが全く計算違い。棚が十分に稼働していなかったこともあり、引っ越し荷物は全て床の上におかれることになった。トラック2杯分くらいでほとんどスペースが無くなり、後は高く高く積んでいかれる。途中で引っ越しやのお兄さんがこれ全部はいりますか?といってきた。1時荷揚げを中断するから何とかスペースを作れ、ってことで、1時間ほど悪戦苦闘してスペースを開けた。
 もう1台分のトラックの荷物が入ったころは入り口から中心にむかって歩く左右60Cmほどの通り道と突き当たって更に左右に歩くこれも60Cmほどの小道があるだけで、通り道の左右は高くつまれたパッキンの壁。何処から手を付けたら良いのかわからない状況だった。
 「何事にも、いつか終わりは来る」そう信じて片付けを始める。けれども「ムリは通らない」事も事実。どんなに場所を移動しても収まらないものは収まらない。結局更にトラック1杯分の私にとっては宝物の“がらくた”を破棄することにした。“片付ける”って言葉は“破棄する”って言葉と同義語だったということを初めて知った。 更に棚を追加しこれでスタジオには“窓”というものがいっさい無くなってしまった。もっとも写真スタジオ“特にデジタルスタジオ”に窓は不要なのだが、“空気が悪くなる”ってことは事実。もちろんその手の空調は完備している訳ではないのが大問題だ。それでも何とか本来の意味で撮影ができるようになるまで約1ヶ月もかかってしまった。その間も撮影は入るし打合せも入る。動きながらの片付けというものはこれがまた大変なものだった。

エアコン
練馬のスタジオから持ち込んだものに200Vで動く動力のエアコンがあった。確か30万円位したものなのだが、これを取り付けるためにも大騒動があった。なにしろ窓の外しか室外機を吊る場所が無いのだ。4Fという高さは上に上げても下に下ろしても室外機までが遠い。勢いエアコンの馬力が落ちてしまう。で、外に吊るのに15万ほどかかるというのだ。ああビックリ。そして取り付け工事の日。
 1~2時間で終わると言われて、結局終わったのが深夜の2時ころ。一番の理由は何でも8mmの六角ナットが無かったらしい。(特殊な工具がいるので、困ったとついに白状したのだが、聞いてみるとあたしがもってるやつだった)最後は部屋はぼろぼろ、後かたずけもなく、それからがたいへんだった。なにしろ翌日に打合せが入っていたもので。部屋中にまったほこりを掃除し、移動した機材を戻し、コンピューター類の再配線をし、配置を戻す。一人でやらなければならない羽目になった。魔、デモ、これも無事? に付いた。
 
自宅の引っ越し
スタジオを移転している間に自宅も移転する計画。本来はスタジオ部分の片付けが終わってから、自宅部分の引っ越しという段取りだったのだが、これが全て平行しながらの作業になってしまった。それでも決行したのはスタジオの片付けが終わらないかぎり私が遠距離通勤“片道2時間”にはもう体力が付いていきそうもないからだ。実はこの段階で自宅は見つかっていなかったのだ。
 自宅探しから始まったのだが多くの問題を含めていた。なにしろ条件が多いのだ。
 まず、第一にネコを飼えるマンションであること。うちにはもうご存知の片も多いと思うが、“おかく”と“ペコ”という2匹の娘がいる。もちろん耳が大きくしっぽの長いのが自慢の美猫だ。…といっても既に“おかく”は齢18を数えるれっきとした「もう少しで化け猫」というお年寄りなのだが。彼女らについてはまた別の章で書くこともあると思うので簡単に済ますことにしよう。
 第二にスタジオから歩いて15分という距離。最大20分の距離であること。これはあたしが太りすぎて「運動」というものから全く無縁になり、スポーツクラブなどに通う気もなく、おまけに「一人でジョギング」等決してやらない種類の人間だから。当然うちは共稼ぎの「同伴出勤」ということになり、電車を使うとかなり近い駅でも一ヶ月に3万円近い定期代になってしまう。それなら3万円くらい高くても近くに住みたい。おまけに深夜になってタクシーで帰るってことも多くあるとすると(いや絶対にあるに違いない)そんな交通費まで含めると家賃は高くとも、結局近いほうが安いのではないか、ということになった
 でも第三に値段は13万前後。これ以上はどうしてもでない。
 第四に底層階。実はうちのニョウボどの、高いところが不得意。5階から上はだめらしい。私も初めて知っ
た。
 第五に駐車場が近い事。会社の近くの駐車場が高いし、しかも家の車が入るところが内と来ているので、勢い自宅に駐車場をもつことになる。(台東区は千代田区よりも1~1.5万円は安い)
 
この五つの条件を満たすマンションであれば、日当たりが悪くたって(2Fを希望している時点で日当たりなどには縁がないはずなんだが)我慢しようということで、マンションの真下に駐車場のある3Fを悦子が見つけてきた。ベランダが焼き肉パーティを開けるほど広い。しかも浅草橋の駅から5分。会社まで15分。ネコはだめ、っていってたのも粘って粘って何とか勘弁してもらえた。
何処の不動産屋でも「ペット可」といいってるのにもかかわらず、「ネコはだめ」といわれたのだ。「ペット可」、ってのは「小型犬は可」、って言う意味だと初めて知らされた。何処まで行っても賃貸業は「自分のうち」であり、客の立場に立って商売していないんだなと思う。これでは不動産業は傾くはずだ。礼金制度だって文句はいろいろある。こっちは家賃払ってやってるんだぞ。“ペット可”ではなく、どこか“ペット歓迎”と言う表現派できないのか?ネコは壁で爪を研ぐ。それは解るが、それならそこに対応したマンションは造れないのか?といいたいことはいくつもあるが、ま、これはまた別の機会にということで閑話休題。
実はインターネットで検索して、当りの良さそうなところを片っ端から電話を入れていたのだが、実はこれ、ほとんど同じ物件で、最後はひとつの不動産屋さんにみな繋がっていたらしい。仲介してくれたかたもネコを飼っているらしく、結構粘ってくれ、不動産屋も“朝からネコネコって今日はいったい何なんだ?”ということで、最後に重い腰を上げて大家さんを説得してくれたらしい。この大家さんはとても物分かりのよい方で、ネコをいれるのは初めてだから、保証金を多めに積んでくれ、とおっしゃったのだ。その心は、最後にうちがでるときに、普通のいぬと同じような結果だったら、そのまま返す。もし汚れ方がひどかったら、その保証金を使って直してくれ、という、実に理路整然とした理屈で了解して下さった。

かくして私たちはこんなラッキーなことはないと自宅部分をこれも3tトラック3杯を連ねて練馬から浅草橋に引っ越してきたのだ。

そして一週間後、新築マンションのチラシがポストに入っていた。これがまた、間取りが私たちの理想に近い間取りだったのだ。しかも今のうちから歩いて2~3分のところ。悦子に冷やかしに言ってきたら、と言ってしまったのが、こんな結果を引き起こそうとは。

ついに3度目の引っ越し
実は予想よりも狭かったのだ。一軒家の威力を思い知った私たちは更にその意識に追い討ちをかけられることになった。タンスを捨て、机を捨て、それでも生活環境は整わない。おまけに納得ずくで越したはずなのに、日が当たらない、ってことがこんなにも辛いことだとは知らなんだ。なにしろ朝、起きることができない。どんなに疲れていても、練馬にいたときはそれでも起きることができたのに、こっちに来てからすっかりだめになってしまった。何か“起きる”という気力が沸いてこないのだ。朝日というものはこんなにも大事なものだったとは知らなかった。北向きの部屋で寝ていたのだが、それでも朝はしっかり明るくなり、ちゃんと目が覚めていたのだ。おまけに家に帰ってくる喜びもない。と言うのは、狭くて居る場所がないのだ。2人が座ると、もう身動きできない。一人が動くために、もう一人がどかないと、トイレにも行けない。自宅でマシンを開くことさえ、はばかれるのだもの。移動の際は体を横向きにして動く(私の場合は実はあまり変わらないのだが)。洗濯機置き場がキッチンの隣りにある。どう考えても生活導線をうまく作り上げることができない。荷物を入れるまでは判らないことだった。こんなになってしまうと仕事にもはっきり影響が出始めた。でも納得ずくできたのだから、なかなか口に出していえないでいた。あたしって結構内気なんだ。

悦子が新築マンションを見てきたらしい。まるでセールスマンのような勢いであたしにどんなに素晴らしいマンションかを説明してくれる。そして夜の9時になってもいから見にいこうと誘うのだ。
南と西側に大きく開いた窓があり、交差点に面しているので、陽を遮らない。新築マンションの2階で宅配BOX付き(もっとも今のマンションは全てその辺の設備は調っているのだ)。今より少し広いだけで荷物が完璧に収納できる。しかも仕事をするスペースを確保でき、駐車場も真下に一コ開いていた。浅草橋の駅よりは遠くなったが、秋葉原に近い。と言うよりもほとんど浅草橋と秋葉原の中間といったところか。昼は交通量が多いが、夜は静か。
何と言っても一日中お陽さまが入る。
悦子も実は同じ気持ちで板らしい。彼女も納得づくで決めたマンションだったので、今更意見を翻せないでいたのだ(これは強情のせいか?)。ところがこのマンションを見てしまい、その強情も音を立てて崩れ去ったようだ。
“生活できる、そして何も使わないスペースを確保できる”と言うことは大きなことだ。と言うよりも既に絶対条件。昔のように四畳半で生活できる体ではなくなってたのことに改めて気がつく。それは解るのだが、引っ越してから、まだ二週間程度しか経っていないのに、と言う気持ちがあまりにも強い私にこれを売らねば今月もノルマを達成できないセールスマンのような勢いで私にメリットを説明する(実はこいつはセールスの方にむいてるんじゃないか?)。私もついその気になって間取り、家具の配置などを考えているうちに心が動いた。そして最後は「あたし達はいないけど昼はネコ達がいるんだもん。お日さまが当たらないネコはあまりにかわいそうじゃないか!」と言う錦の御旗を掲げることになった。

その後は値段交渉。さっそくインターネットで販社を検索してみると、来月決算月。昨年上場し、赤字。今年は株式公開記念で1割の配当を約束している。で、2部屋売れ残っているのだ。これはたたける!とおもってある数字に落ち着いたところで義父に報告に行った。さっそく事情を説明した途端、「それはもっとたたける。おまけに台東区の平均相場よりまだ、ずっと高いじゃないか?そんなに豪華な設備のマンションじゃないんだろ?」と言われた。慌ててその当りを調べると、まさしくその通り。すっかり舞い上がり、実は他のマンションはいっさい見ずに周りの相みつさえとらずに決めてしまったのだ。探してみるともっと広く、もっとやすい物件が見つかった。でも決めてしまったし、とぐずぐずしていた
ら銀行の融資額が予想よりも少ないことが判明した。個人経営の経営者って可なり確実な担保をもたないとけっこう信用がないものだね。十分理解はできるけど。これでは買いたくても買えない。あたしのところには既にほとんど手持ちのお金が無くなってしまっていた。後は販社が買える値段まで負けてくれなくては買うことは不可能となり、数回交渉があったが、結局あきらめることにした。そこで焦って別の物件の確認しにいくと、最高の環境の(しかも安い)マンションはタッチの差で売れてしまっていた。

一から出直しである。
マンション探しが始まった。つてを頼って、新築、中古を当たり、ついにこれなら、と言う物件を探し当てた。少し遠くなるが、設備が充実し、更に広いマンションだ。ところが購入のための書類がほとんど前の販社に行っていたため、それを取り戻すべく電話すると、私たちの言い値近くまで下げたら、買うか?と言ってきた。立地的には最初に見たマンションがもっとも良かったこともあり、別の意味で振り出しに戻ることになった。実はこれも「て」だったらしいが、この手の交渉ごとに弱いあたし達は簡単にOKしてしまった。その後義父に経過を電話すると、「ま、そんなとろだろ。でももっとたたけたな。それが業者の手だよ。」と言われてがっかり。でもこれでやっと引っ越しすることができる。これ以上仕事以外のことに体力と数少ない知力を使い果たすわけにはいかない。

以前と同じ引っ越し屋(日通だったが)に「3度目なんだから安くして」と食い下がり、あきれられながらの引っ越し。大家さんにも事情を説明し、(これが一番つらかった。大家さんはとてもよい方で、私たちもなついていたのだもの)こんなに短い期間で出ていく人たちは初めてだ、とこれもすっかりあきれながら、何と敷金を全て返してくれた。これは大きなお金だった。これで何とか新しい家具を買いそろえることができたのだ。感謝。

かくして、約二ヶ月にわたるどたばたの引っ越し騒動は幕を閉じる事になった。めでたしめでたし。(もっとも代表者が移転しないと本店登記ができないため実際には今も引っ越しの手続きは進行まだしていたのだが、物理的な引っ越しはこれで完了した)さっそくうちのネコ達は壁を好き放題ひっかいている。私たちはほとんどいないが、何かの拍子で日中に自宅に帰ったときに、日だまりで丸まっている“おかく”と“ペコ”を見る度に幸せを感じているこの頃ではある。